こくごのおと

こくごの実践をまとめます/ 国語教育 / 学力向上

「分かりやすい授業」ということ③

    前回は、「分かりやすい授業」を成立させる条件として、「聞く姿勢をつくる」ということを紹介しました。今日は条件の二つ目をお伝えします。

 

2-2 分かりやすい授業の条件 - 授業の再現性を意識し、説明内容を厳選する

  

 そもそも「分かりやすい授業」とはどのような授業のことでしょうか。

 私は「授業のポイント(または解法)をその授業の終わりに生徒が再現できることである」と考えています。

 例えば、数学の二次方程式の授業があったとしましょう。その授業で生徒が「分かったか(理解したか)どうか」は、演習問題の出来で判断できるわけです。正答にたどりつくためには教員が示した解法を再現することになるはずです。

 また、国語の『土佐日記』の授業において、作品情報を説明するとします。それが授業におけるポイントだとすると、「『土佐日記』について「日記文学」「女性仮託」「国司」の三語を用いて100字程度で説明しなさい」のような記述課題を出します。やはり、課題を達成するためには教員の説明を再現しなくてはなりません。

 

 このような授業構想意識を持つことによってはじめて、何を話すべきで何をカットすべきかが見えてくるのではないかと思うのです。つまり、その授業終わりの再現課題に必要のない情報(余計な情報)というのは、優先度の低い情報であるといえます。「分かりやすい授業」を目指すためには、そのような情報は意図的にカットして、授業のポイントを明確化することを心掛けなければなりません。私は「分かりやすさ」という観点において重要なのは、たくさんの知識を話せる力ではなく、知識を厳選して話せる力なのではないかと考えています。

 

 授業構想をしないまま先を見据えずに授業しはじめてしまうと、当然、教員自身がポイントをつかめないまま授業をしてしまうわけですから、学習者にとって授業のポイントがどこにあるのかが分かりにくくなり、日々の授業の精度にばらつきが生じます。ある日の授業は分かるけれども、あるときは要領を得ない、というような授業を行ってしまうことになるのです。

 いくら教員の言語技術や板書技術を向上させたとしても、この部分の意識が弱いと、生徒のテストの成績には上手く結びつかないと思います。

 

 最後に今回の話をまとめます。私が主張したかったことは「毎回の授業での「分かりやすさ」を担保しつづけるためには、生徒が授業内容を「再現」できるように、教員側が説明する内容を精選することが大切である」ということです。

 何が必要なのかを厳選して話すという「厳選意識」を持つことで、毎回の授業の精度が上がっていくのではないでしょうか。

 

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 今回もお付き合いいただきありがとうございました。

 次回は「分かりやすい授業」に必要な条件の三つ目について書く予定です。このテーマは次回が最終回の予定です。

 

「分かりやすい授業」ということ②

   前回、「分かりやすい授業」は教員が信頼されるために必要不可欠である、と述べました。

   今回は、その「分かりやすい授業」に必要な条件の一つ目を紹介します。しばし、お付き合いください。

 

2-1 分かりやすい授業の条件 ―  聞く姿勢をつくる


 「分かりやすい授業」の条件といえば、多くの人が「 説明が上手いことである」と考えているように思います。 たしかに、 言語技術にもとづく説明の上手さはなくてはならない要件ですが、 それよりも大切なことがあると考えています。
     それは、生徒の「聞く姿勢をつくる」ということです。 どんなに説明がうまかったとしても、教室がざわざわしていたり、 生徒が下をむいていたりする場合、話は生徒に届きません。 話が入っていかなければ、分かる話も伝わりません。ですから、「 聞く姿勢」をつくることが習慣になっていない場合は、 まずは教員が話すときこちらを向く習慣をつけさせないといけません。


   「聞く姿勢をつくる」ための声掛けには、 主に二つの種類があると考えます。
    一つ目の方法は童話「北風と太陽」になぞらえるとすれば、「 北風」的な方法です。つまり、正面から「話を聞け」 というメッセージを発する方法です。

    具体的には、「 話を聞くときは体の正面をこちらにむけましょう」とか、「 今から話を始めますから、顔を上げてください」とか「 では一旦前を向いて、話を聞こうか」という指示を出すわけです。 この方法は直接的に「話を聞け」 というメッセージを伝えることになりますから、話は早いです。

    ただし、注意すべきなのは、この方法が管理的な側面が強いということです。 指導的であるとも言い換えられます。この方法しか持ち合わせていない場合、指導の回数を重ねていくことで拒否反応を示すようになる生徒が一定数いるのではないかと思われます。


    そこで二つ目の方法が活躍します。それは先の例でいうと、「太陽」的な方法です。 この方法は直接的に「話を聞け」 とは言わずに自発的に生徒に話を聞くように誘導するものです。

    具体的には「なぜ今からこの単元を学習するかといえば、将来こんなことができるようになるからだ」とか「今からする説明は全員にとってとても重要なことだ」とか「次の話はみんながわくわくするんじゃないかな」など、 この後の話の「価値」を話したり、「期待」を持たせるような話をしたりすることが挙げられます。

    私はこの両者を、クラスの状況に合わせて併用するべきだと思います。

 これらをおろそかにすると、 授業のメリハリがつかなくなります。 教員はうまく物事が説明できたつもりであっても、 それに反して生徒たちは学習内容を理解していない、 ということになるわけです。授業は年間を通じて行われますから、 折にふれてこういった指示や話をしなければ、 生徒ほうに聞く姿勢が継続できなくなってきます。


 一方で、「聞く姿勢」を求める、 ということは当たり前の指導のようですが、 これはものすごく覚悟のいることです。なぜなら、暗黙のうちに「 これから価値のある(有意義な)話をする」 ということを生徒に予告するようなものだからです。話を聞けと言っておきながら、話の内容が不明瞭であったり、 話の中身が薄かったりした場合、生徒は「 この人は口ばっかりの偉そうな人だ」と判断することになるでしょう。

    そうならないように、「聞く姿勢」を作っていきながら、 その姿勢が保たれているうちに、「聞く価値のある話や説明」 をし続けなければなりません。
    生徒は私たち大人と同様に評価する目を持っています。「聞くのは当たり前」などというおごった態度をとっていると、生徒たちの心は離れていってしまいます。ですから、会議で同僚や上司に何か提案するときと同様に、 準備をしておかなくてはならないと思います。

 

    次回は必要な条件の2つ目です。ぜひ、お読みください。

「分かりやすい授業」ということ①

 ブログの存在すら忘れていましたが、久々に更新します。

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 教員になって五年目の秋を迎えました。
 今年の目標は今までの実践をまとめるということです。一旦自分のしてきたことを意識的に記述しようという試みです。

 私がとりわけ試行錯誤してきたのが、「授業」です。いろいろな手法を取り入れては、捨て、取り入れては、捨てと、思えば生徒に申し訳ないことをしてきました。

 その中で一つ確信が持てたのが、「分かりやすい授業」が自分自身の何より重要な基盤になっているということです。
 そういうわけで、大それたテーマ設定ですが、「分かりやすい授業に必要な要件とは何なのか」を、私の経験をもとに述べてみたいと思います。

 授業論ですが、この「授業」を「一般企業におけるプレゼン」や「スピーチ」に代入してもらっても全く問題ないと思います。

 

1 分かりやすい授業をすることのメリット

 「分かりやすい授業」をすることのメリットとは何でしょうか。

 そんなことわざわざ考えずとも「生徒の成績が上がるから」ではないか、と思われるかもしれません。

 しかし、私はそれよりも大切なことがあると考えます。

 それは、「分かりやすい授業」を展開することで「その教員を信頼してもらえる」ということです。そもそも成績を上げるためには、その先生についていこう、と生徒に思われなくてはなりません。成績を上げるには、他の先生が提案してこなかったような(生徒たちにとっては斬新な)勉強法を紹介することもあるでしょう。そのとき、その先生が信頼できない場合、その手法を取り入れるでしょうか。成績向上のために「勉強しよう」という声掛けや雰囲気づくりをします。信頼できない先生が声高に訴えかけても、その呼びかけは届かないのではないでしょうか。

 また、教員の仕事は学習指導だけではありません。部活指導や生活指導もあります。そういう指導の現場でも、「信頼関係」がベースになっていることは間違いありません。

 つまり、「先生が信頼される」、ということが全ての教育活動において大前提なのです。

 このように主張すると、「授業だけで信頼関係を作るわけではない」という意見が出てきてもおかしくありません。たしかにそうです。休み時間や放課後に生徒とコミュニケーションをとることはとても重要です。また、部活動の指導で培われる部分も大きいでしょう。

 ただ、それでは信頼関係を築けるのは一部の生徒に偏ってしまいます。クラス全員に対して信頼関係を築いていくためには、共に過ごす時間が最も長い、普段の授業に注力すべきでないか、というのが私の主張です。そのうえで、(戦略的な言い方になってしまいますが、)授業と並行する形で生徒ひとりひとりと個別に信頼関係を築いていくのがいいのではないでしょうか。

 

 「分かりやすい授業」の話に戻りましょう。

 授業方法にもいろいろなものがあります。グループワークを中心にすえる授業。問題演習を中心にすえる授業。教員の講義を中心にすえる授業。さまざまです。

 しかし、教員が全く何も説明しない授業というのはないはずです。すべての教員が説明の技術を求められるわけです。

 生徒たちは「この教員の話は聞くに値するかどうか」をはじめの数回の授業で評価します。もしも、はじめの一週間の授業内容がちんぷんかんぷんだった場合、(それも学習の難易度ではなく、教員の説明が原因である場合)生徒の心は離れて行ってしまいます。「はずれの授業」であるとみなして、生徒たちは見限ってしまうわけです。その評判が他のクラスの生徒に回ってしまえば、「信頼」とは反対の評価がなされることになります。

 逆に「(この先生がどんな先生かは本当のところはまだ分からないけれど)話はよくわかるな」と実感させられたならば、「この先生の話は分かるからまあ聞いてみよう」という態度をとってくれるでしょう。

 私が教員生活を送ってきて、「分かりやすい授業」に必要な条件を、不遜ながら3点にまとめてみました。次回はその1を紹介したいと思います。

 

中学古文について考える④

 ずいぶん更新が滞ってしまいました。

 「おくのほそ道」の授業がようやく終わりを迎えました。今回は「おくのほそ道」を具体的にどう実践したか、ということを述べていきます。更新が止まっていたのは、生徒の現状を見ながら学習予定を変更する可能性があったためです。

 

 さて、本題に。

 今回私が重視したのは「ゴール(最終課題)から逆算したうえで、毎回の授業ですべきことを明確にする」、ということです。毎回の授業で「わかる」「できる」という経験を積み重ねることによって、すごく難しく見える課題ですらクリアできるのだ、という実感を抱いてほしいと考えました。

 ゴール(最終課題)は以下のことをワークシートにまとめる、というものです。教科書の目標や学習指導要領を参照しつつ、おさえておきたい最低限の事項をまとめたものです。実際、生徒の半数以上はB4用紙(両面)2枚以上書ききることができました。

①「おくのほそ道」の概要(作者・作品)について

② A旅立ち B平泉①(「夏草や」)C平泉②(「五月雨の」)の三場面についてそれぞれ以下のことをまとめる。「あらすじ」・「語句の意味・読み方」・「俳句の解説(現代語訳・対比)」・「主題(とそう読み取れる理由)」・「感想」

③あとがき(全体を通した感想・まとめた上での工夫)

 私はこの課題を達成させるために、さらに分割した小課題を考えました。小課題とは、授業終わりに書く200字作文にすることが多かったです。私の経験上、200字にまとめきれる以上のことを一度の授業でやっても、生徒の身にはつかないようです。

 例えば、芭蕉が江戸から旅立ちの準備をする場面でに登場する、「草の戸も住み替わる代ぞ雛の家」という俳句。この俳句には対比が登場します。これを理解してほしいとします。生徒には書き出しやキーワードを示しながら、次のような作文を書かせます。【「草の戸も住み替わる代ぞ雛の家」の句について説明します。この句には対比が用いられています。「草の戸」と「雛の家」が対比されています。「草の戸」には、貧しい、質素、一人住まい、現在、というイメージがありますが、「雛の家」には裕福、華やか、複数の人が住んでいる(女の子)、未来、というイメージがあります。】

 

 上記内容を踏まえた実際の授業内容を、以下に載せておきます。

●:200字作文化した課題

[概要]

●おくのほそ道の概要について聞き取る
 *作者について・内容について
 *マッピングマインドマップ)の技法で聞き取る


[旅立ち]

・本文視写 *ノート指導
・重要語の意味・読み方の確認
●暗唱練習「月日は〜死せるなり」
●旅の準備をしている箇所を挙げる
 *6カ所→旅への強い思い
●俳句の解釈
 *「草の戸」と「雛の家」との対比(イメージ)
●主題の理解
 「人生は旅である」
 *根拠:「月日は」・「舟の上に」・「住める方」
・現代語訳視写
 *本文に対応した形で書き取る
 *東京書籍『新編 新しい国語3』では「旅立ち」のみ現代語訳が付されている
●あらすじの作成(80字・40字・20字の3パターン)


[平泉1]

・本文視写
・重要語の意味・読み方の確認
●平泉の歴史について教科書内容をまとめる
・本文に登場する人工物と自然を指摘
義経についての説明を聞き取る
 *マッピングマインドマップ)の技法で聞き取る→200字作文化
芭蕉が涙を流した理由
●俳句の解釈
 *「夏草」と「夢の跡」との対比(イメージ)
・現代語訳聴写
●あらすじの作成(80字・40字・20字の3パターン)

 

[平泉2]

・本文視写
・重要語の意味・読み方の確認
●俳句の解釈
 *「夏草や」の句とは違い、人工物である光堂が残り続けていることに感動
・現代語訳聴写
●あらすじの作成(80字・40字・20字の3パターン)
●主題の理解(平泉1・2)
 「時の移り変わりによって、失われるものと残り続けるものがある」
 *根拠:「夏草や~」・「五月雨の~」

 

中学古文について考える③

前回の投稿の一節より。

ここで一つ言える結論は、「中学古文の学習においては、学習意義や教材の魅力を語る、という方法以外を中心に据えて、学習への興味を持続させる必要があるのではないか」ということです。では、どのようにするか。私は、毎回の授業課題の達成に求めていく、ということがいいのではないかと思っています。

 

今日は少し話をそらしたいと思います。現在アクティブラーニングが急速に広まっています。また、生徒に学習を預ける『学び合い』(西川純先生提唱)も全国区になりました。これらの学習理念は、生徒の主体性や協働性を育む目的があります。

ここで、注目すべきなのは、生徒中心学習という学習形態ではありません。これらの学習理念が教室で展開されていく際に、教科の学習意義や教材の魅力を長々と語りかける必要がなくなる、ということです。授業の焦点を、教科の本質という場所から、生徒の学びの達成や生徒の主体性・協働性の育成という場所に「ずらす」ことができる。つまり、中学古文というテーマにおいて私が主張したいことと重なります。

生徒が必要に応じて友人と協力しながら学習課題を達成することに夢中になれば、教員はわざわざ教科や教材そのものの価値を語りつくす必要はなくなる。

生徒は目の前の課題を着実にこなして、自信をつけていくことによって、知らず知らずのうちに古文が「できる」ようになっている。教科教育の「意義」とか、古文の「魅力」などといった、堅苦しい命題と真正面から向き合わなくてすむわけですね。お互いにとって気が楽なのです。

教員というのは(思い切って一般化してしまいますが)何でもかんでも意義とか価値とか、そういうものにしっかり時間を割いて説明したくなってしまう職業人です。しかし、それを少し削ってみたほうが案外うまくいくのではないか、ということです。力の入れどころをずらしてみたほうがいいのではないか、とうことです。

 

次回は、本題に戻って『おくのほそ道』をどのように実践するか、ということについて述べていきたいと思います。

中学古文について考える②

今回は、前回の投稿をより深めてみます。かなり主観的な物言いになりますが、ご承知おきください。

まず、前回の投稿を要約します。

古文はどうしても、学習意義や教材の魅力を語れば語るほど、生徒の実感から乖離した「違和感」が蓄積する科目である。そしてその堆積が授業を運営していく上で時に耐えがたい障壁となるのではないか。

簡単にいうと、こういうことでした。

 

だだ、この障壁というのは、中学一年生にはまだ表れにくいように思います。そもそも学習意義を語る必要に迫られにくい。

第一の理由として、中学一年生の多くはまだ清新な心を持っています。中学一年生は教員の言ったことに対して何の疑いもなく取り組む傾向にあります。そして、いきなり古文に対して早速、学びたくないというような態度を取るような生徒も比較的少ない。

第二の理由として、中学一年で多くの生徒が学習する『竹取物語』はファンタジー要素に富んでいて、純粋に興味がそそられる単元だといえます。『竹取物語』には生徒の興味をそそる、いわば「吸引力」のようなものが存在します。

 

しかしながら、中学二年にさしかかり、状況は刻々と変化していきます。

まず、生徒たちの中には学びに対して後ろ向きな態度を示したり、そうでなくても学ぶ理由について疑問に思ったりする者が登場しはじめます。感覚的につまらない、と感じる生徒と、論理的に思考したうえでなぜ学ばなくてはいけないのかと考える生徒が出てくるわけです。その両者を納得させなくてはならないのです。

次に、教材に関して一年次とは性質の異なるものが登場します。ちなみに東京書籍の教科書に掲載されている中学二年の古文は、『枕草子』と『徒然草』です。「随筆」を扱うわけです。物語である『竹取物語』に比べて、「随筆」というのは純粋に楽しめる単元か、と言われると、そうでない生徒も出てくるのではないか。本校の生徒と、自身の中学時代の経験を振り返って、そう思います。さらに、中学三年になると松尾芭蕉の紀行文『おくのほそ道』を扱うことになります。中学生の目線に立つと、物語性もなければ、教訓性もない、ましてや親近感もわきにくい文章を長々と学ばされるわけです。苦痛以外の何物でもありません。

そこで、教員は状況を打開するために、学習意義や教材の魅力について語らなければならなくなります。しかし、「語り」は授業の前フリでしかありません。いくらその「語り」が立派でも、学ぶコンテンツが魅力的でなければ生徒は意気消沈することになる。その差が大きければ大きいほど、期待を裏切られることになる。生徒のつまらなさそうな顔を目にして、教員は躍起になって持ち前の知識で意義を語る。生徒はその言葉を聞けど、単元に魅了を見出せない…。教員の努力にもかかわらず、その裏切りの繰り返しが、障壁を決定的なものにしてしまうのです。

補足的に述べておくと、そういった「語り」を行うこと自体は悪いことではありません。科目や授業の価値をインストラクションすることが生徒のモチベーションを高めることは言うまでもありません。ここで言う問題は、「語り」と実際の授業とギャップが大きいことなのです。ギャップの大きさが大きいほど、授業運営に致命的な傷を残します。価値を「語れば語るほど」五里霧中に立たされることになります。

 

ここで一つ言える結論は、「中学古文の学習においては、学習意義や教材の魅力を語る、という方法以外を中心に据えて、学習への興味を持続させる必要があるのではないか」ということです。では、どのようにするか。私は、毎回の授業課題の達成に求めていく、ということがいいのではないかと思っています。

授業課題が毎回「できる」という経験を蓄積させることと、授業の内容を定期テストの時点でも忘れずに「覚えている」ということ。そのささやかな成功体験が次の授業へのモチベーションとして、小さな火を灯しつづけるのではないかと考えます。大きく消えやすい火よりも、小さな消えにくい火を全員に灯す、ということ。それが中学古文の授業を成立させるカギになりえるのではないでしょうか。(つづく)

 

中学古文について考える①

 私の学校はテスト期間に入っています。テスト明けの第一発目の単元は古文「おくのほそ道」です。この際なので、中学生に対する古文指導に関して、思うところと、どのようにその思いを実践へと具体化していくのか、というのをゆっくりと述べていきたいと思います。

 古文。中学生にとって古文の重要度の位置づけはかなりの低位であるはずです。まずそもそも興味がない。なぜ、昔の人のことをわざわざ知らなくてはならないのか。昔のことを知るのになぜ、現代語訳された文章でなく、堅苦しい古文のまま学ばなくてはならないのか。そういう疑問が渦巻いてくるのではないでしょうか。

 例えば、魅力ある古文を引き合いに出して(例えば教訓性に満ちた『徒然草』の一節を持ち出して、目の前の生徒に必要性を説くなど)、「現在の君たちが時空を超えて昔の人とつながることができ、そこから教訓や歴史を学ぶことができるのだ」、という学びの動機づけを行うことはできます。

 しかし、生徒にとって一度ひっかかかった「違和感」のようなものは、簡単に拭い去れるものではありません。教員は角度を変えながら必然性を何度も生徒に理解させようとします。生徒の頭に訴えかけていくことになるわけですが、そういう教員の健気な姿勢が、古文嫌いをますます加速させているように思えてならないのです。

 そもそも、古文は他教科や国語の他の科目に比べて説明しにくいという特質があります。説明できたとしても、それを「古文のまま」味わう意味、というところでどうしても行き詰ってしまう。例えば、古文の中にちりばめられている必要な情報というのは現代語訳で提示されてしかるべきだ、という生徒からの意見がでたとします。教員は何らか応答をしなくてはいけないわけですが、突き詰めていくと、「古文は今の日本語を形作ってきたのだ。音読することでリズムを味えるのだ」とか「努力すれば1000年も前の文章をそのまま読むことができるのだ」とか「古文とはもはや外国語だ。外国語を勉強するというのはそういうものだ」とか、そういう生徒が完全には腑に落ちないような反論を持ち出すほかないように思えるのです。少なくとも、私は中学生が完全に理解できて、しかも私自身が納得する言葉で古文を(古文のまま学習する意味を)語ることはできません。最終的には「入試で必要でしょ」という、最後のカードを切るほかなくなってしまう。

 この時点で、微妙な「違和感」・「倦怠感」が教室を覆うことになります。知らず知らずに蓄積される生徒と教員との「ズレ」がのちのち授業を運営していく上で、大きな支障を来たすのではないか。私はそう感じています。(つづく)